第9話 「天正遣欧使節とイベリア半島の音楽」第9回演奏会より

1582年(天正10年)2月、島原半島の有馬にあったセミナリオで学んだ少年らがヨーロッパへと旅立ちます、天正遣欧少年使節とよばれる一行です。主たる目的は2つ、1つは使節団に当時の欧州の繁栄と権威を学ばせて、帰国後その実情を日本で広く語り知らしめること。したがって年齢が13、4歳と若く、欧州へ渡り見聞を広げ帰国した後に活躍するだけの十分な体力と気力を備えていることが条件とされたと考えます。使節団のもう1つの目的は、欧州の君主に日本の実情を報告し布教の支援を要請することでした。もちろん当時の慣例に従って、キリスト教となった首長が使節を派遣して教皇に服従を示す意味もあったと考えられます。

<1586年の新聞に掲載された肖像画>

天正遣欧使節団のメンバーは以下の通りです。

正 使:伊東マンショ、千々石ミゲル
副 使:原マルチノ、中浦ジュリアン
宣教師:イタリア人のヴァリニャーノ(途中ロドリゲスが代行)ポルトガル人のメスキータ
随 員:コンスタンティノ・ドラード、アグスティノ、ジョルジェ・デ・オヨラ、 サンチェシュ


正使である伊東マンショは大友宗麟の名代として、同じく正使の千々石ミゲルは有馬鎮貴(晴信)と大村純忠の名代として選ばれました。

長崎を出港して2年半後の1584年8月にポルトガルに到着します。途中マカオに10カ月間滞在し、マラッカに1週間、インドで7カ月間滞在し、アフリカの喜望峰を回り大西洋に出たの到着でした。

ポルトガルからスペインのマドリッドへ移動し、そこでスペイン国王フェリペ2世に謁見します。一行は国王から熱烈な歓迎を受けました。当時のマドリッドにはフェリペ2世の妹マリア太后が住んでいて、作曲家ビクトリアはこのマリア太后に仕えていましたから、使節団一行はビクトリアと接する機会があったかもしれません。

さらに一行はイタリアへと旅を重ね、遂に目的地ローマへ到着します。そしてヴァチカン宮殿において教皇グレゴリウス13世との謁見を果たします。祝福と歓迎を受け、また一行の着物姿が奇妙に映るため西洋式の衣装まで贈ってもらいました。しかし、その3週間後に教皇グレゴリウス13世は亡くなります、新たに誕生したシクストゥス5世からも手厚い歓迎を受けることができました。

新教皇シクストゥス5世のラテラノ教会への行幸式へ参内する4人の使節団の馬上の雄姿が、ヴァチカンの壁画に描かれ、現存しています。右の写真の2段目と3段目です。

ラテラノ教会とは作曲家パレストリーナが音楽監督を務めていた教会であり、ここでも本日演奏する作曲家との接点がございます。

さて本日の演奏会の解説にあたりまして天正遣欧使節団とのかかわりを2点述べたいと思います。

1つめは1605年長崎で出版された典礼書「サカラメンタ提要」とのかかわりです。
使節団は印刷技術と印刷機を日本へ持ち帰りました。前述の使節団メンバーにコンスタンティノ・ドラードと名前がありますが、肥前諫早出身の日本人です。ドラドルとはポルトガル語で金細工師を意味し、彼はヨーロッパで金属活字鋳造術と印刷技術を習得しました。帰国後、持ち帰ったグーテンベルグの印刷機を用いて日本で最初の印刷楽譜「サカラメンタ提要」の制作に貢献します。


左の楽譜は実際のサカラメンタ提要に収録されているグレゴリオ聖歌の1曲「Tantum ergo」です。
左下は現代の楽譜に書きなおしたものです

2つめは音楽技術、演奏技術を持ち帰ったことです。ポルトガルに滞在中、大聖堂のオルガンを立派に演奏したことが記録されています。さらに1590年(天正18年)7月少年たちは無事に帰国を果たしたのち京都へ上洛して、時の権力者、関白秀吉に謁見しました。聚楽第での謁見の終わりに、秀吉は少年たちに西洋楽器を演奏させました。しかも3回もアンコールして演奏させた記録がありますが、その曲名は不明です。さて秀吉の御前で演奏された曲が一体何であったのか?当時「皇帝の歌」として流行していた曲に注目が集まっていますが、詳しくはこの分野の研究の第一人者である竹井先生より会場でお話しいただけるものと存じます、ご期待ください。

ここで話題をイベリア半島に移しましょう。現在のスペイン・ポルトガルが位置するイベリア半島は、紀元前2世紀から5世紀にかけてローマ人が支配しローマ帝国の一部でした。5世紀にゲルマン民族が侵入し西ゴート王国を建設し、さらに8世紀にはイスラム教徒が上陸して覇権を握り以降15世紀までの800年間イスラム教徒が支配していました。これに対抗して11世紀からキリスト教徒による国土回復運動「レコンキスタ Reconquista」が開始され次第に拡大していき、ついに1492年のグラナダ陥落をもってキリスト教徒が完全にイベリア半島の覇権を回復します。

その後スペイン王国に君臨したのはハプスブルグ家のカール5世(スペイン王としてはカルロス1世)です、母方の祖父はスペイン東部のアラゴン国王フェルナンド、母方の祖母はスペイン中西部のカスティーリャ王女イザベルで、カール5世の君臨をもってスペイン統一王朝の誕生とされます。そしてカール5世の後を継いだ息子こそ、前述のフェリペ2世です。フェリペ2世の母親はポルトガル王女でしたから、1581年に彼はポルトガル国王も兼ねます。ポルトガルはアジアに多くの商館を有し、コロンブスが発見したアメリカ大陸と合わせると全世界に領土が広がりました。この時代のスペインは「太陽の沈まない帝国」と称賛されますが、世界中に領土があるから24時間いつでも昼の場所があるという意味です。フェリペ2世の統治した時代こそスペインの黄金時代です。

この時代に活躍したスペイン最大の作曲家としてトマス・ルイス・デ・ビクトリア(1548-1611)があげられます。スペイン中央部カスティーリャ=レオン地方のアビラに生まれ、アビラ大聖堂の少年聖歌隊員を務めながらイエズス会の学校で初等教育を受けます。さらにイエズス会の拠点であるローマの最高教育機関のコレジウム・ジェルマニクムで聖職者と音楽家としての教育を受けた後、しばらくローマで活躍しました。晩年、おそらく1585年頃には故郷のスペインへ戻り、フェリペ2世の妹マリア太后付きの司祭として音楽活動を続けました。ビクトリアは聖職者として生涯独身を通し、作曲家としては珍しく世俗曲を一切作曲しませんでした。現存する作品はすべて宗教曲です。本日演奏いたします「Popule meus」は聖週間聖務曲集(1585年)、「Vere languores」はモテトゥス集(1572年)、「Missa O quam gloriosum est」はミサ曲集第2巻(1583年)に収録されています。

栄華を極めたスペインの恩恵を受け入れながら、聖職者として活躍した清廉でひたむきな作曲家の作品をどうかお楽しみください。

つぎに「Simile est regnum coelorum」を作曲したクリストーバル・デ・モラレス(c1500-1553)は、16世紀前半のスペインを代表する作曲家です。1526年から1531年までアビラ大聖堂の楽長を務めていたこともあり、そこはビクトリアが少年時代に活躍した教会ですから、モラレスの作品にふれ影響を受けたたことは間違いないと考えます。モラレスは1535年から10年間ローマのシスティーナ礼拝堂の聖歌隊の歌手として活躍したことも知られています。

「Tantum ergo」を作曲したフランシスコ・ゲレーロ(1528-1599)はセビーリャ大聖堂の楽長として活躍しました。1581年から1584年までローマに滞在しビクトリアと親交があったこと、またモラレスに直接師事したこともわかっています。

最後にイエズス会の話をさせていただきます。

イエズス会とはカトリック教会の男子修道会の1つです。スペイン人のイグナティウス・デ・ロヨラ(1491-1556)が1534年留学中のパリで同志数名とともに結成します。ローマを本拠地として活動し、1540年教皇パウルス3世から認可され、イエズス会は公認されました。創立当初から宣教活動と青少年の教育事業に力を注いだとされます。イエズス会の宣教師フランシスコ・ザビエル(1506-1552)はパリでロヨラと志を同じくしたスペイン人で、日本にキリスト教を広めるため鹿児島に上陸します、それは1549年のことです。ちょうど作曲家ビクトリアが生まれた翌年にあたります。そのザビエルの来日から30年余りたった1582年、日本人の少年たちがイベリア半島を目指し旅立ちました、そして初めて欧州の大地を踏み、ビクトリアと出会ったのかもしれません、なんとも不思議な時代のめぐり合わせである点を心にとめおきくださいますようお願いいたします。

上智大学吉利支丹文庫の「サカラメンタ提要」の表紙

グーテンベルグの活版印刷機(復元)

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