第1話 「ルネサンスとは何か」第10回演奏会より

桂冠詩人「ペトラルカ」とルネサンスの精神文化

ルネサンスとは

私がルネサンス音楽について考える上で最初に抱いた疑問は、「ルネサンスとは何か」ということでした。 ミケランジェロやラファエロ、レオナルド・ダ・ビンチに代表される絵画や彫刻等の美術作品、あるいはルネサンス様式の建造物、そして我々合唱団が演奏するルネサンス音楽など芸術史上まことに華やかで優れた作品が創出された時代であると多くの人は考えるでしょう。しかし「ルネサンス」の意味は曖昧で、「時代区分」として用いる場合と、「文化運動」の意味で用いる場合とでは全く異なります。

ではまず、“いわゆるイタリア・ルネサンス”について…
ルネサンスとは「文芸復興運動」と教科書で習いました。これ以前の「中世の時代」は、ギリシャ・ローマの栄光が衰退しゲルマン民族に欧州の覇権を握られた時代でした。社会学的には封建制、農奴制社会です。キリスト教は広く大衆の中へ浸透し、教皇が皇帝や王権と争った時代でもあります。ペストの流行、異端審問が行われ「暗黒の時代」と評する人もいます。経済・文化の面では、イスラム諸国や東ローマ帝国の方がはるかに優勢でした。かつてローマ時代イタリアは文明世界の中心であり栄華を誇っていたのに、ゲルマン民族の支配を受け、人口増加による食料不足、疫病は流行、最後にはキリスト教の中心であるローマ教皇さえヴァチカンからフランスのアヴィニヨンへ移転してしまいます。

このような中世を打破すべく、「ラテン民族(イタリア人)の誇りと栄華よふたたび!」と湧き上がったのがイタリア・ルネサンスでした。

イタリア・ルネサンスの原動力として次の3点を注目します。
1つめは経済力です。地中海沿岸は13世紀に「商業のルネサンス」と呼ばれる繁栄の時代を既に迎えていました。東方アジアで生産される香辛料、熱帯果物、絹、綿、染料などを北イタリア商人がヨーロッパ内陸へ転売し、代価を南ドイツ産の銀で支払いました。北イタリアの都市は貿易商と両替商として巨額の富を手に入れていたのです。

2つめはビザンツ帝国(東ローマ帝国)の崩壊です。1453年オスマン・トルコ帝国の攻撃により首都コンスタンチノープルは陥落しますが、それ以前に多数のビザンツ帝国の学者(ギリシャ人)たちがイタリア半島へ避難し、その際ギリシャ語の優れた学問や書籍も一緒にもたらされました。

そして3つめはペストの大流行です。腋の下や股のつけねのリンパ節が腫れ、全身に出血斑ができ黒いあざだらけになって死んでゆく。ペストは黒死病として恐れられました。このむごたらしい病気から教会は信者を救済することができませんでした。フィレンツェはペスト流行により人口の5分の3(約3万人)が死亡したと言われています。

非常に俗的な表現ですが、お金も手に入った、古代ローマ文明の模範であるギリシャの知識も手に入れた、そこへ教会の禁欲的生活から解放された、そうした3拍子揃ったところでルネサンスは開幕します。ギリシャ・ローマ時代の模倣に始まり、人間としての自己の発見と個性の尊重、人間の理性(ヒューマニズム)の再生が始まります。誤解がないように申し上げますが、ルネサンス期の人々はキリスト教の信仰をないがしろにしたわけではありません。むしろ中世の時代より一層の信仰心を持ち、神の存在を追求しました。そして鮮やかな絵画や彫刻、建築技術をもって信仰の中心である教会を飾ることに熱心でした。ルネサンスはかつてのローマ帝国の中心であり歴史遺跡が多く残されたイタリアで成し遂げられるべきである、これもまたラテン民族の誇りをかけた原動力です。

このルネサンス(文芸復興運動)の初期の中心人物としてペトラルカ(1304-1374)が有名です。ペトラルカは単に詩人として多くの優れた文芸作品を残したのみならず、ルネサンスの先駆者として精神文化の礎を築き、その方向性を後世に示した人です。もしペトラルカがいなければ近代叙情詩は生まれなかっただろうし、シェークスピアもフランス・プレイヤード派の詩もペトラルカのため息の木霊(こだま)にすぎないと評価する研究者もいます。このほかにルネサンスの先駆者と評されるのが、「神曲」を著したダンテ(1265-1321)、「デカメロン」の著者ボッカッチョ(1313−1375)、でありこの3人がいルネサンスの先駆者でありイタリア文学の3巨星と賞賛されます。

桂冠詩人「ペトラルカ」の生涯とルネサンスのヒューマニズムhumanism(ユマニスム)

フランシスコ・ペトラルカの父親セル・ペトラッコは代々イタリア・フィレンツェの公証人の家系で裕福な暮らしをしていました。しかし陰謀により財産を奪われてフィレンツェ近郊の町アレッツォへ亡命することを余儀なくされました。その亡命中の1304年7月20日ペトラルカは生まれます。7歳のとき一家はピサへ移り、さらに翌年南仏アヴィニヨンへ移ります。当時のアヴィニョンはローマ教皇が教会を移していて新しい教会庁の地として発展していました。アヴィニヨン近郊のカルパントラに住み、この地の4年間に学校でラテン語を習得しラテン古典文学に魅了され、少年ペトラルカは古代ローマきっての名文家キケロに陶酔したといわれます。

12歳の秋に法律の勉強のためモンペリエ大学、16歳で当時の法学研究の中心ボローニャ大学に学びます。21歳の春、父の訃報を受けボローニャ大学を去りアヴィニョンへ戻ります。父親から解放されたペトラルカは法律の勉強をやめ、大好きな文学に専念します。ラテン古典文学を精力的に研究する傍らで俗語(イタリア語)による詩作にも取り組み、その美しい抒情詩によってペトラルカは名声を得ます。しかしながらアヴィニヨンという都会の快楽的な生活にも陥り、衣服や頭髪、靴や香水で外見を飾ることに没頭したそうです。22歳の聖金曜日(1327年4月6日)、アヴィニョンの聖クララ教会で運命の女性ラウラと出会いますが、残念なことにかの女は既婚者でした。ペトラルカはラウラへの報われぬ愛に心を奪われますが、彼女との再会を果たすことなく彼女はペストでこの世を去ります(1348年)。死んでもなお彼女への愛情は衰えることなく、ペトラルカの美しい恋愛詩を生み出す原動力となりました。

1330年頃ペトラルカは経済的理由から聖職者となり独身生活を義務づけられます。しかしペトラルカは恋と歌と名声を求め、37年に息子ジョヴァンニ、43年に娘フランチェスカが誕生しました(いずれも母親は不明)。

その一方で1340年9月1日、ローマの元老院とパリ大学から桂冠授与の知らせが届き、ローマでの戴冠式を決心します。翌年ナポリのロベルト王から桂冠詩人の資格審査を受け、その年の4月8日ローマでの戴冠式を経て桂冠詩人となりました、ペトラルカは36歳の若さで桂冠詩人として栄光をおさめます。年齢を重ねるにつれその名声はさらに大きくなり、ヨーロッパの王侯たちは競って自国に招待し、知識人との交流も深めました。ペトラルカと交遊を結んだ知識人は彼の推進する文学運動のよき協力者となります。ペトラルカは友情を大切にし、また数多の良き友人にも恵まれたそうです。

ペトラルカを中心とする文学運動は、ルネサンス・ヒューマニズム(人文主義)を呼ばれ、彼が生きた時代はそのヒューマニズムの成立過程そのものです。現代用語のヒューマニズムは「人類愛・博愛主義」ですが、ルネサンスのヒューマニズの意味は全く違います。ルネサンスのヒューマニズムとは「人文主義」、すなわち人間が人間たる所以(ゆえん)を学ぶことです。人間と動物とを区別する第一の根拠は言葉を話す能力であり、人間を完成させるための学問として「Studia humanist・人文学」を位置づけました。ちなみに当時の大学で講義された人文科学とは、文法・修辞学・詩・倫理学・歴史の5科目だそうです。Humanismはラテン語読みで「ユマニスム」と発音され、ギリシア・ローマ時代の文物、詩歌、哲学を研究することを通じて、理性的な人間の中に倫理の源泉を見いだそうとする学問です。古代へ帰れの掛声のもと、多くの優れた成果をあげました。

またペトラルカは「世界初の近代登山家」とされています。1336年4月26日アヴィニヨンの北東にそびえるヴァントゥウ山(海抜2000mほど)に登ります。何ら実用的な動機が無く、山頂からの眺望を求めて登ったのです。無動機ゆえに「最初の近代的登山」とされます。

さまざまなルネサンス

ルネサンスという言葉を初めて用いたのは19世紀フランスの歴史家ジュール・ミシュレで、その著書「フランス史」(1855年)の中で“Renaissance”と頭文字のRを大文字として特別な意味を持たせて使用したのが始まりです。後にスイスのヤーコプ・ブルクハルトが「イタリア・ルネサンスの文化」(1860年)を著し広く認知されるようになりました。当初、ルネサンスは明瞭な時代区分であると考えられました。通常イタリア・ルネサンス期とは14世紀中期から17世紀初頭の約250年間をさすと言われ、もっと厳密にはペストがヨーロッパを席巻した1347年頃が始まり、哲学者ブルーノが異端的世界観(宇宙の無限性を唱えた)によりローマで火刑された1600年が終わりと考えるのが一般的なようです。

しかしながらルネサンスをギリシャ・ローマ古典古代への文芸復興運動と定義すれば、その年代は全く異なります。9世紀のフランク王国では「カロリング・ルネサンス」がおこります。「12世紀ルネッサンス」という時代も提唱されています。これ以外にも復興運動はあると指摘されますが、今回は音楽に関して注目すべき「カロリング・ルネサンス」と「12世紀ルネサンス」について解説いたします。

グレゴリオ聖歌の成立とカロリング・ルネサンス

初めにフランク王国の説明からします。395年ローマ帝国が東西に分裂しました、西ローマ帝国はわずか100年たらずで滅んでしまい、代わりに西ヨーロッパにはゲルマン民族によりフランク王国が成立します(481年)。現在のフランス、ドイツ、イタリア、ベネルクス三国(ベルギー、オランダ、ルクセンブルグ)がその領土であり、それ以後EU成立まで類を見ない、広大な勢力範囲を誇っていました。このフランク王国では9世紀に「カロリング・ルネサンス」と称される文芸復興運動が展開します。768年フランク王となったカール大帝(フランス語ではシャルルマーニュ)はローマ教皇との関係を深め、アルプスを越え中部イタリアを占領し教皇領として領土の一部を寄進しました。教皇レオ3世から西ローマ帝国の皇帝として認められ、西暦800年12月25日ヴァチカンのサンピエトロ大聖堂で戴冠式に臨み、西ローマ帝国の復興を果たします。

この解説で取り上げるべきカール大帝の功績は2つあります。
 1つめはラテン語を普及させたことです。聖職者や官僚の水準を高めるためラテン語の教育を進め、領土内の共通語としてもラテン語を普及させました。カール大帝の時代には領土が拡大したため、領内が異なった言語のままでは統治する上で支障を来したからです。同時にラテン古典の書物の復活や保存に力を注ぎました(文芸復興)。各地に散在していたラテン語の写本を収集し比較検討させて誤字を検証し、より正確な写本の改訂に努めました。さらに写本用の文字を改良しカロリング小文字筆記体を定めました。カロリング小文字体による当時の写本はもっと正確で美しい完璧な写本として現代の研究者からも賛美されています。その後長きに渡り西洋文化の共通語としてまた学問の担い手としてラテン語の地位は不動のものとなりますが、カロリング・ルネサンスの時代にその起源があるのかもしれません。今日でも動植物の学術名はラテン語で名付けらますし、医学の分野でも解剖学用語は全てラテン語です。

カール大帝の功績の2つめは教育機関の充実と音楽教育の充実を図ったことです。領内各地の修道院と司教座聖堂に附属学校を整備しラテン語教育を施しただけでなく聖歌隊学校も設立しました。これら教育機関は各地方の知的文化の中心となり、王宮から修道院へ、中央から地方へと文化の拡散が行われ、カロリング・ルネサンスの開花に大いに貢献します。

グレゴリオ聖歌の起源について読者の方はどのようにお考えでしょうか?
私はかねてからグレゴリウス1世(在位590−604年)の勅命より編纂された聖歌集であると思っておりましたが、このカロリング・ルネサンスの時代にガリア聖歌とローマ聖歌とを統合させ発展させ、フランク王国内の修道院で編纂されたと考える研究者も多いようです。実際に在位されていたグレゴリウス2世(在位715-731年)、グレゴリウス3世(在位731-741年)をたたえるためにその名前を冠したと考えることもできます。事実、5世紀以来フランク国内の教会ではガリア式(昔のフランスは“ガリア”と呼ばれた)の典礼が慣行されていましたが、カール大帝の父であるピピン3世の時代にローマ式典礼へ改められましたから、当然ながら典礼聖歌もガリア式とローマ式の融合が図られた可能性があります。またビザンツ出身の修道士らがこの地域で広く布教活動を行っていたとの指摘もあり、彼らが伝えたビザンツ地方の旋律も同時に加わった可能性を研究者らは指摘しています。グレゴリオ聖歌の起源がこのカロリング・ルネサンスに時代あると考えると、ラテン語で歌われること、音楽(単旋律)にのせて唱えられることなどカール大帝の功績が大きいのかもしれません。グレゴリオ聖歌の楽譜の研究で有名なソレム修道院、世界最古の写本が保管されているサンクト・ガレン修道院などが、かつてフランク王国の領土であった地域に点在する事も納得いただけると思います。

 

ポリフォニー音楽と12世紀ルネサンス

歴史的には“中世”と定義される12世紀にあって、ギリシャ・ローマの古典古代の研究がさかんに行われた時代があります、「12世紀ルネサンス」です。ギリシャ・ローマ古典文化が地中海の対岸を経由して、イスラム・ビザンツの諸国からいわば間接的にヨーロッパへもたらされたのが大きな特徴です。またアラビア語で書かれたイスラム世界の優れた医学、数学、化学、航海技術、天文学などの文献がラテン語に翻訳されヨーロッパ諸国に広がりました。その発信地となったのはイタリア南部のシチリア王国のパレルモやスペインのトレドです。シチリアは地中海の島で、イスラム圏との交流が盛んな地域でしたし、スペインは国土回復運動(レコンキスタ)によってイスラム教徒の支配領域をキリスト教徒が取り戻した地域です。右の表をご覧ください、当時のアラビア語起源の専門用語は今日でも多く用いられることがお分かりいただけると思います。

さらに12世紀ルネサンスの時代、世界初の「大学:universitas」が誕生します。サレルノ、ボローニャ、パリ、モンペリエ、オックスフォードです。大学の原型は“教師と学生の学問的な共同体や組合”であり、北ヨーロッパでは修士(教育資格者)の組合が学生を集めて学費を徴収したのが起源とされ、南ヨーロッパでは学生の組合がお金を出し教師を雇用したのが起源と考えられています。いずれにしても日本の大学設立の状況とは大きく違っています。これら世界初の大学設立の基盤を作ったのはカロリング・ルネサンス時代に各地に整備された修道院付属学校と司教座聖堂付属学校である事も記しておきます。

合唱音楽において初期のポリフォニー音楽の資料が見つかるのはこの12世紀ルネサンスの時代です。フランスの聖マルシャル修道院(聖マーシャル楽派)、スペインのサンティアゴ・デ・コンポステラでは優れたポリフォニー作品が作曲された事がわかっています。さらに12世紀末になるとパリのノートル・ダム聖堂に優れた音楽家が出現します、レオニヌスとその弟子のペロティヌスです。ノートル・ダム楽派とよばれ、「オルガヌム大曲集」として楽譜が現存しています(後述)。

ポリフォニー音楽が展開し、名曲が作られ始めたのはこの12世紀ルネサンスの時代であると考えられます。

ルネサンスの薫り

ここからはイタリア・ルネサンスについての私の個人的な印象を述べることにします。 歴史家の中には、ルネサンス期になってもまだ占星術や魔術といった思想が強固に残っていて、中世の時代と何ら変わらない、ルネサンス期は未だ民衆の精神としては中世の域を脱していないと指摘する研究者もいます。また、現代では正しいと認識される科学的な事実、あるいは教会批判や思想といった内容を強く主張すると、「異端」とされ見せしめのために公衆の面前で火炙りの死刑にとなり、己が正しいと思う主義主張を自由に表現できない時代であったのも事実です。

かの光に輝くルネサンスとは幻であり、あくまで中世の後期にしかすぎないのでしょうか?
1つ注目すべき点は、ルネサンス以前の芸術作品、特に絵画、彫刻、建築に作者の名前を記する慣習は無かったらしく、音楽の世界も同様に、名曲といわれる曲の多くが作者不明であることです。しかしながらルネサンスを境にして美術・音楽の作品に作者の名を冠するようになりました、絵画や彫刻には作者が記され、音楽も作曲者が記されます、まさに「個性の発見」です。いくら個性といってもユマニスム=人文主義の時代ですから、一定の許容範囲の中のことで、つまり後世の突拍子も無いような個性は見られません。音楽でいえば、同じ古典派でもモーツアルトとベートーヴェンの初期の交響曲は誰でもその作風の違いを聞き分けられるでしょうし、同じピアノ曲でもショパンとリストとはその違いが分かりそうです。しかしながらルネサンス期の合唱曲を聴いて、もしそれが今まで聴いたことが無い曲だとしたら、パレストリーナかビクトリアか、あるいはラッソといった作曲者を言い当てることは私には不可能です。それくらいルネサンスの作風は、目新しさや難解さのような強調点を持たないのが特徴だとされます。たとえば本日演奏しますジェズアルドという作曲家は、斬新な半音階手法を用いたため、「ルネサンス的では無い」とか、「ルネサンス末期からバロックにかけて」の作曲家と区分されます。

もう1つキリスト教における歴史・哲学観の変化があります。今年の演奏会の案内状はラファエロ(1483-1520)の「アテネの学堂」を掲載いたしましたが、この絵画にはギリシャ時代の有名な哲学者たちが描かれています。中央の二人はプラトンとアリストテレスです。驚く事にこの絵はヴァチカンのローマ教皇の署名の間、つまり書斎の壁に描かれています。ギリシャ時代にまだキリスト教は成立しておらず当時の人々は異端の神を信仰していたはずですから、中世の時代のキリスト教でギリシャ哲学は否定されていました。しかしルネサンスを迎えると一変します、それはイエス様がお生まれになる前だから仕方がないことであり自分たちの文明の生みの親ではないか!…プラトンについて研究が重ねられ「新プラトン主義」が成立しました、“人間は理性まで高まることによって神に近づき天国へと召されることが出来る”となったのです。中世の人々には想像つかない事だと思います。

ルネサンスの合唱曲に魅せられ練習していますと、音楽の根底には人文主義の思想が一貫して流れていて、「ルネサンスの薫り」みたいなものを日々感じることがあります。宗教曲にはひたすら「神に対する畏敬の念」と「万物宇宙の調和」が満ちあふれています。また世俗曲においては「古代(自然)に帰れ」の理想のもと、歌詞に忠実な音符が付けられます、風の描写ではあたかも風が吹くように、また波がさざめくように、鳥の鳴き声もあたかも鳴いているかのように旋律を歌います。楽しい曲は心がおどるごとく、悲しい曲は心が沈むごとく、楽譜を見るだけで理解できるように作曲されているのです。

まことに未熟な私たちの演奏ではございますが、このようにルネサンスの時代を生き抜いた作曲家の思いを聴衆の皆様に感じ取っていただけるならば幸いに存じます。

<もっと詳しくお知りになりたい方へ>

  1. 「改訂版 合唱音楽の歴史」皆川達夫著 全音楽譜出版社 1965年
  2. 「中世・ルネサンスの音楽」皆川達夫著 講談社 2009年
  3. 「南蛮音楽 その光と影」竹井成美著 音楽之友社 1995年
  4. 「新版 中世・ルネサンスの社会と音楽」今谷和徳著 音楽之友社 2006年
  5. 「ルネサンスの音楽家たちⅠ」今谷和徳著 東京書籍 1993年
  6. 「キリスト教と音楽」金澤正剛著 音楽之友社 2007年
  7. 「グレゴリオ聖歌」ジャン・ヴァロワ著 水嶋良雄訳 白水社 1999年
  8. 「グレゴリオ聖歌選集」十枝正子編 サンパウロ 2004年
  9. 「ヒューマニスト・ペトラルカ」佐藤三夫著 東信堂 1995年
  10. 「ペトラルカ〜生涯と文学」近藤恒一著 岩波書店 2002年
  11. 「ペトラルカ 無知について」近藤恒一著 岩波書店 2010年
  12. 「ペトラルカ ルネサンス書簡集」近藤恒一著 岩波書店 1989年
  13. 「ペトラルカ=ボカッチョ往復書簡」近藤恒一著 岩波書店 2006年
  14. 「ルネサンス文化と科学」澤井繁男著 山川出版社 1996年
  15. 「ルネサンス」澤井繁男著 岩波書店 2002年
  16. 「イタリア・ルネサンス」澤井繁男著 講談社 2001年
  17. 「ルネサンス」ピーター・バーク著 亀長洋子訳 岩波書店 2005年
  18. 「十二世紀ルネサンス」ハスキンス著 別宮貞徳ら訳 みすず書房 1997年
  19. 「入門 十二世紀ルネサンス」ヴェルジュ著 野口洋二訳 創文社 2001年
  20. 「ルネサンスとは何であったのか」塩野七生著 新潮文庫 2008年
  21. 「スイス・ベネルクス史」森田安一編 山川出版 1998年
  22. 「ベルギーを知るための52章」小川秀樹編 明石書店 2009年
  23. 「大学の歴史」クリストフ・シャルルら著 岡山茂ら訳 白水社 2009年
  24. 「アルファベットの事典」ブリュゴープト著 南條郁子訳 創元社 2007年
  25. 「文字の歴史」ジョルジュ・ジャン著 矢島文夫訳 創元社 1990年
  26. 「西洋美術鑑賞解読図鑑」サラ・カー=ゴム著 高橋明也ら訳 東洋書林 2004年
  27. 「名画の言い分」木村泰司著 集英社 2007年
  28. 「歌うイタリア語ハンドブック」森田学著 ショパン 2006年
  29. 「ギリシャ神話物語事典」バーナード・エヴスリン著 小林稔訳 原書房 2005年
  30. 「岩波キリスト教辞典」大貫隆ら編 岩波書店 2002年
  31. 「新音楽辞典 人名」音楽之友社 1982年
  32. 「世界史年表・地図」亀井高孝ら編 吉川弘文館 1968年

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