第2話 「聖書とラテン語」 第11回演奏会より

1.はじめに

今回のテーマは、かねてより私が興味を持っていた聖書の成立過程と、更にその際にラテン語がどのような役割を果たしたか、この2点です。無学な頭ながら調べましたのでお付き合いください。中世ルネサンスの宗教音楽の知識を深め、現代の我々がラテン語で合唱することの意義、歌う喜び、聴く楽しみを再発見していただく助けになればと願います。

さて「キリスト教」は紀元前4年に生まれたイエスが人類の救世主キリストであると信じる人々によって始められました。その信仰を広め(伝道)、祈りの集会(ミサ)を執り行う場所が教会であり、信仰の礎となるのは「聖書」であります。

みなさんは聖書が「旧約聖書」と「新約聖書」から構成されていることはご存知だと思います。旧約聖書とはイエスが誕生する前に、神がモーセを通してユダヤの民との間で交わされた契約を記した書物です。また新約聖書はイエスを通して、神が全人類との間で交わされた契約を記した書物と考えられています。

2.旧約聖書の成立とユダヤ民族の歴史

旧約聖書とは実はキリスト教側からの呼び方で、ユダヤ教では「律法と預言者と諸書」と呼びます。旧約聖書に対して難解との印象を持たれるかもしれませんが、天地創造、アダムとエバの失楽園、バベルの塔、ノアの方舟(大洪水)など、多くの有名な話があります。これらは人の虚栄心や傲慢さを戒め、人間の不遜さへの教訓であると考えます。更にこれらが当時のユダヤ人にのみ向けられた問題ではなく、現代を生きる私たちにも共通すると私は思います。

ところで1週間が月曜から日曜まで7日とされるのは、旧約聖書の創世記で神が世界を6日でお造りになり、翌日を「安息日」とされたことが起源であることも加えておきましょう。ただしユダヤ教の安息日は土曜日です。

ユダヤ民族の歴史

教典にはユダや民族の祖先は「アブラハム」と記されます。彼は今から4000年程前の紀元前20世紀、神の啓示を受けメソポタミア地方からパレスチナ地方に移り住みました。当時のメソポタミア地方はチグリス川とユーフラテス川の恩恵により豊かな収穫に恵まれた肥沃な大地でした。またシュメール人による人類最古の文明が開花した地域でもあります。前1600年頃に飢饉による食糧難により、一部の人々がパレスチナからエジプトに移住します。後にこのエジプトに移動したユダヤ人の子孫が、モーセに導かれてエジプトからカナーンへ帰る物語、これが「出エジプト」で前1290〜1260年頃と考えられています。この途中、モーセはシナイ山で神ヤーウェから「十戒」を授かりました。その内容は、自分以外の何ものも神としてはならない、神の像を刻んではならない、神の名をみだりに唱えるな、など10箇条です。神の権威を借りて人間が自らを絶対化することへの警告であり、人間がこしらえたものを偶像化し、意図的に神的権威を与える行為は、時代を超えて人類に不幸をもたらす危険性があり畏れ慎むようにと十戒は教えているのです。

この後ユダヤ民族に繁栄が訪れました、前1020年頃にサウルとダビデにより12部族が統一され「イスラエル王国」が誕生したのです(「サムエル記」)。さらにダビデの息子のソロモン国王の時代に繁栄は頂点を極め、エルサレムに神殿(第1神殿)と王宮が建設されました(「列王記」)。国民の多くは歓迎したようですが、この神殿の建設はイスラエルの神からの離反であると一部の預言者が痛烈に批判します。権力に屈しない預言者の存在は、イスラエル王国の南北分裂(前922年)と続いておこる南北王国の滅亡、エルサレム陥落(前586年)、という苦難の時代に至って、民族の救いとなり活躍します。ソロモン王の時代、多くの聖職者や預言者は国王から庇護を受け裕福な暮らしに甘んじましたが、王国の滅亡とともに彼らは宗教的な権威も失ってしまいました。その一方、イスラエルの神殿建設を批判した預言者らは、多くのイスラエルの同胞がバビロニアへ連行される(バビロン捕囚)苦難の時代を乗り越え、祖国帰還と神殿の再興(第2神殿)を迎えるにあたって、今こそモーセの律法にかえって民衆の自覚を取り戻す時期だと諭しました(「エズラ書」、「ネヘミア書」)。このときに以前のイスラエルの宗教と区別されたという意味での「ユダヤ教」が成立したとされます。バビロニアが滅び、ペルシャによって祖国帰還と神殿建設は果たされましたが、やがてペルシャを滅ぼしたギリシャのアレキサンドロス大王にエルサレムは支配され、続いてエジプト、さらにシリアからの支配を受けます。マカバイ戦争(前168年)に勝利しシリアからの独立を勝ち取りますが、前63年ローマ帝国によって再びエルサレムは陥落してしまいます。ローマ帝国の支配を受ける中、イエスが十字架に磔になったときのローマ総督の名前は「信仰宣言:クレド」の中に登場する、ピラトPilatos総督です。

このようにマカバイ戦争の勝利後の百年間ほどの独立期間はありましたが、バビロン捕囚以来の長い間、ユダヤ民族は外国の支配を受け続けていました。民族の独立と繁栄を再び取り戻すために人々は救世主の出現を待ち望んでいたのです。

ユダヤ教の聖典の構成とその成立年代

ユダヤ教の聖典は「律法と預言者と諸書」の3部で構成されます。律法(ヘブライ語では「トーラー」)、予言者(ヘブライ語:ネビイーム)、諸書(ヘブライ語:ケトゥビーム)、これら3つの頭文字をとって「タナフ」と呼ばれるそうです。律法とされるのがモーセ五書(創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記)であり、前400年頃までに聖典と認められました。預言者(ヨシュア記、士師記、イザヤ書、エレミア書など21の書)は前200年頃まで、諸書(詩編、雅歌、哀歌など13の書)は西暦90年のヤムニア会議で聖典とされました。

ここでヤムニア会議についての説明です。西暦30年頃、イエスの十字架事件が起こり、その後エルサレムでローマ帝国に対するユダヤ人の大反乱が起きました。西暦66〜70年の「ユダヤ戦争」です。ローマ軍が勝利し、エルサレムは焼き払われ、神殿も破壊されました。さらに第2次ユダヤ戦争の後、ユダヤ人がエルサレムから追放されてしまいます。この間、ヤムニア村に学者が集められ、様々な議論を交わしたとされます、西暦80〜90年頃です。

旧約聖書は何語で書かれたか?

ユダヤ教の聖典が何語で記述されたかいうと、ユダヤ民族の公用語たる(古代)ヘブライ語です(ただしエズラ書やダニエル書の一部はアラム語で書かれたそうです)。前記のヤムニア会議を経て継承されたヘブライ語の聖典本文を「マソラ本文」と呼びます。

また幾度も外敵からの攻撃と支配をうけた結果、エルサレムを離れて地中海沿岸の各地へと移住したユダヤ人も多く、「ディアスポラ(離散)」のユダヤ人と呼ばれます。彼らは「シナゴーク」といわれる共同体をつくり生活し、時が過つと彼らの子孫は、当然ながら、母国のヘブライ語を理解できなくなりました。このため前3世紀から前2世紀にかけてアレキサンドリアで72人の長老によってギリシャ語への翻訳が行われました。これは「七十人訳聖書Septuaginta, LXX」と呼ばれます。エジプトのアレキサンドリアは大きな港町で当時の世界最大の図書館があり、その蔵書目的で聖典の翻訳を開始したという説があります。しかし、当時の国際公用語としてのギリシャ語の影響力は強く、オリジナルのヘブライ語聖典に匹敵する権威を備えました。新たな聖典が加筆される際にギリシャ語のみで加筆されたり、ヤムニア会議の成果がギリシャ語訳には修正されなかったりと、ヘブライ語聖典とは一部で異なる内容となりました。
こうして旧約聖書にはヘブライ語とギリシャ語訳と2つの系統が広まることになりました。

3.イエスの活動と新約聖書の成立

新約聖書はギリシャ語で書かれました。残念なことに原本は存在せず、現存するのは写本です。全書揃った写本から部分的な断片のものまで、全部で5000もの写本が世界中に存在します。それら写本の1字1句を照合し、写本毎に異なる箇所を見つけ、どちらの写本がよりオリジナルな原本に近いのか判定する作業を「正文批判」と呼び、膨大な作業量となります。

さて新約聖書の作者はいったい誰でしょうか?

読者の中には、キリスト教の聖典だからイエスが書いたに違いないと思う方もいらっしゃるでしょうが、残念ながらイエスが執筆したという資料はありません。当時の教育水準では、大工の家に生まれたイエスが当時の母国語のアラム語は理解したとしても、国際語としてのギリシャ語の読み書きができたとは多くの研究者は考えていません。また新約聖書の4つの福音書(マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネによる)は各々の名前の作者が書いたとされます。しかしこの4人の中で、マタイとヨハネという使徒はいましたが、マルコとルカという名前の使徒の存在は不明です。このため、マルコはペテロの書記(通訳)、ルカはパウロの書記であるとされます。

4つの福音書

まず「福音書」とういう言葉について…
福音(書)とは、ギリシャ語のエウアンゲリオンευαγγελιονの邦訳です。「よい:ευ」と「知らせる:αγγελλω」を併せた「よい知らせ」を意味する普通のギリシャ語でした。しかしヘブライ語に“岩を転がす”の意味で「エヴェン・ギライオン」という語があり、お墓の石が動くことは埋葬後にイエスが復活されたことを連想させ、キリスト教徒にとっては特別な響きがしましたので、ラテン語へはevangeliumとそのまま音訳されました。ただし英語ではゴスペルgospel(good spellの意)と訳されます。日本語もエヴァンゲリオンではなく、良い知らせという意味で“福音”という言葉が定着していて、残念ながら岩を転がすという意味が全く伝わりません。

福音書とは単にイエスの生涯を記録した伝記ではなく、イエスが神の子キリストである事を証明するための信仰告白と考えるべきだとされます。ゆえにイエスの奇跡や神的行為について語られ、疑問をはさむ余地はないのです。さらに、イエスに関する弟子たちの口承伝承を書き記したため、4つの福音書はそれぞれ成立した年代や場所が異なり、福音書の相違点を指摘する研究者も多く存在します。

ここに福音書の記述の相違点を2点だけあげさせていただきます。
まず第1に、イエスの十字架の事件の日付についての記述です。ユダヤ教の「過越の祭り」に注目して読み解いてみましょう。マルコ福音書ではイエスは“最後の晩餐”にあたる「過越の食事」を過越の祭りが始まる日の午後にとり、日付が変わって真夜中に逮捕されて裁判となり、その日のうちに十字架にかけられました。したがって過越の祭りの翌日に死んだことになります。ところがヨハネ福音書では過越の食事が始まる前にすでにイエスは逮捕されていて、夜になる前に処刑されています。過越の祭りの当日にイエスは死んだと読み取れるのです。イエスの十字架の事件という非常に大切な期日に関して、2つの福音書では明らかに異なっています。

次にイエスが洗礼を受ける場面の記述です。マルコ福音書とマタイ福音書ではイエスの洗礼の傍らには洗礼者ヨハネがいて、イエスはヨハネから洗礼を受けたと記されています。しかし、ルカ福音書では、イエスの洗礼の直前にヘロデ王がヨハネを牢屋に閉じ込めてしまい、イエスの洗礼の場面に居ることは不可能となっています。イエスが洗礼者ヨハネから洗礼を受けたという記述に関しても相違がみられます。

この他にも多くの相違点が研究者によって指摘される福音書ですが、その理由をこう考えます…
弟子たちはイエスの福音を伝道するのに世界各地へ散らばりました。これには各地に存在したユダヤ人社会「シナゴーグ」の役割が大きかったといわれ、また「すべての道はローマに通ず」のように、ローマ帝国による街道整備もキリスト教の広がりに貢献したと指摘されます。各地の信者らに口承伝承される間に内容に差異が生じたとしても、情報網の発達していなかった古代において当然のことです。イエスの生涯の伝記というよりも、信仰の証として福音書は書かれるのですから、伝承された通りに一字一句違えず記載したことに対して、周囲が甲乙つけることは困難かもしれません。

現在では4つの福音書の成立年代と場所はかなり解明されています。最も古いのはマルコ福音書で、その次がマタイ福音書とルカ福音書、そして最も新しく書かれたのがヨハネ福音書です。同時に新約聖書の文章の成立順序もほぼ決定しています。まず初めに、「弟子たちの書簡集」が書かれ、次にイエスの言動と教え「福音書」、使徒たちの行動「使徒言行録」、最後に「黙示録」という順番です。パウロの書簡集が書かれたのは西暦50年頃、マルコ福音書は西暦70年代になって、さらにヨハネ福音書が西暦90年代とされます。弟子らが積極的に活動している間は、福音書は書かれなかったらしく、実際マルコ福音書の中でイエスはペテロのことを「サタン、引き下がれ」と悪魔呼ばわりしています。もしペテロがこれを読んだら大変なことになるでしょう。福音書成立の契機とは、時が経ちイエスから直接教えを聞いた弟子らがいなくなり、書き留めておく必要が生じたこと、また、ユダヤ戦争の敗北のためエルサレムのユダヤ人社会が崩壊し、初期教会の主導権がエルサレムからその他の地域に移ったことがあるはずです。だからこそ福音書は、ヘブライ語でもアラム語でもなく、ギリシャ語によって書かれたのです。

キリスト教の神学論の展開

次にキリスト教の成立の過程で教義の内容がどのように変化していったのか、整理してみます。

① イエスの教え

イエスが説いたのは、“神の国がもうすぐ到来する、悔い改めてそのときにそなえなさい”というものです。「黙示思想・終末思想」といいます。洗礼者ヨハネから影響を受けたといわれ、当時のユダヤ社会に「世の終わりに死者が復活し最後の審判が下される」という思想があったそうです。現世の苦難から解放されて神の国が到来することこそ「福音」であり、そのためにイエスは「神への愛と隣人愛」が大切であると説きました。敵を愛し、自分を迫害する者ために祈りなさい(マタイ福音書、5章)です。

②使徒による伝道の始まり

使徒言行録・2章にある「五句節の出来事」がキリスト教の始まりとされます。イエスを救世主キリストと信じる人たちが団結し、ペテロらは公に宣言します。それを聞いた人は心をうたれ、多くの仲間が加わりました。つまり弟子たちはイエスの復活により神の子の出現を悟り、神の国の到来が迫ったことを確信し、この福音を伝えるため伝道を始めます。イエスは神の国を伝道しましたが、今度は、神の子としてイエスが伝道される立場となりました。

初期キリスト教徒はイエスの復活とメシアの再臨を期待し終末思想の中に居ましたから、今後の生活とか、まして子弟の教育というようなことに全く関心がありませんでした。実際マルコ福音書では、イエスは自分の世代、すなわち弟子が生きているうちに終末がすぐにでもやってくると予告しています(9章1節、13章30節)。しかしヨハネ福音書の頃(90年頃)にはイエスの世代の人間や弟子が恐らく死んだ後でしたが、神の国は到来していませんでした。したがってヨハネ福音書では神の国とは、現在と将来の時代という時間の二元論ではなく、地上と天上という空間の二元論へ展開されます、「神の王国は地上に到来するものではなく天界にあるのだ」と説きました。すなわち周囲の教養階級人にキリスト教を弁証し、異邦の哲学に対してキリスト教の信仰や倫理を説明する必要も高まっていたのです。

また異教からの改宗者を迎える必要も生じてきます。マタイ福音書ではイエスの信奉者は(ユダヤ教の)律法を遵守すべきだと説かれています。しかしパウロは、ユダヤ教の割礼や安息日、食物の戒律を遵守する必要はなく、イエスの死と復活を信じる信仰こそが大事であると説きました、「信仰義認」とよばれます。その結果、当初の信者はユダヤ人に限られていたものの、アンティオキアにおいて初めてギリシャ語を話す非ユダヤ人にキリスト教の伝道が始まりました。「クリスチャン」というキリスト教徒の呼び名も、このアンティオキアで生まれました。

③ローマ帝国の国教化

キリスト教徒は度重なる迫害に苦しみますが、信者の数は増大し続けました。ローマ帝国への従順を貫き、いかにキリスト教がローマ帝国と皇帝にとって有益であるか、キリスト教徒はいかにローマ皇帝のために祈りを捧げているか、「弁証家」とよばれる人たちが訴え続けました。ついに313年ローマ皇帝コンスタンティヌス1世が「ミラノ勅命」を出してキリスト教が公認されました。これでキリスト教徒が迫害される危険がなくなりました。さらに330年キリスト教を基礎とし帝国を再建するため、都をローマからビザンチンへ遷都しコンスタンティノポリス(現在のイスタンブール)と改名します。さらに392年、皇帝テオドシウス1世によりキリスト教は国教となります。

またキリスト教は何を信じるのかとの問いに対して、325年ニカイア公会議で使徒信条(信仰宣言の原型)が決まりました。同時にこのニカイア公会議では三位一体論の教義が成立します、ユダヤ教から受け継いだ一神教的な父なる神、子なるキリスト、聖書の中に登場する聖霊、これらの関係をめぐる重大な神学論争に終止符を打ったのが三位一体論であり、以後のキリスト教神学の中心をなす教義となりました。

ちなみに「クリスマス」を教会暦に定めたのはローマ教皇リーベリウス(在位352-366)で、西暦354年のことです。「復活日・イースター」は早くから教会暦にあったそうです。イエスの生誕日の正確な記載は聖書にはありませんが、12月25日に太陽神の祭り(冬至)が盛大に執り行われるのに対抗して、キリスト教徒がクリスマスを盛大に祝うようになったといわれます。そして婚姻や終油などの7つの秘跡「サカラメンタ」が確立したのは6世紀頃といわれます。暦についてもう一つ、ユリウス暦を改良しグレゴリウス暦(現在の太陽暦)を使用したのは1582年グレゴリウス13世です。日本でグレゴリウス暦が採用されたのは明治5年(1872年)です。

さてキリスト教の歴史において重大な出来事としては「東西教会の分裂」があります。1054年7月16日コンスタンティノポリスの聖ソフィア教会において東西の教会がお互いに相手の教会の代表者を破門し分裂しました。その次はルターによる「宗教改革」です。1517年10月31日、ヴィッテンベルグの教会の扉に免罪符反対の「95箇条の宣言文」を掲示したのが宗教改革の始まりとされます。プロテスタントの誕生を受けて、ローマ・カトリックの中に「イエズス会」が誕生します。若い頃軍人としても活躍したイエズス会の創始者イグナティウス・ロヨラは、プロテスタントの打倒とカトリックの勢力拡大を目標に掲げ、新大陸アメリカやアジアに宣教師を送りました。ザビエルがはるばる日本にやって来たのにはこのような教会の事情があったのです。

最後に、19世紀聖書研究の最大の成果とされる「Q資料説」、また20世紀の最大の発見として「死海文書」などについても解説したいのですが長くなりますので、また機会に書かせて戴きます。

4.ウルガタ聖書Vulgataの成立とラテン語による典礼書

キリスト教がローマに伝えられたのは西暦40〜50年頃で、まずローマのギリシャ語社会に広まったためギリシャ語聖書が用いられました。次第にラテン語を使用する人々にもキリスト教は広まり、ラテン語訳が流布するようになりました。しかし不完全なラテン語訳であったため、382年教皇ダマスス1世はヒエロニムスに聖書の改訂を要請します。従来の古ラテン語訳を大幅に改定し、旧約聖書のヘブライ語原文があるものはヘブライ語から訳しました。これが「ウルガタ」と呼ばれるラテン語訳の聖書です。ウルガタとは「一般の、すべての人に知られた」の意味で“大衆訳”とも呼ばれます。さらに、6世紀東ゴート王国のカッシオドルス、9世紀カロリングルネサンスの時代のアルクインらによる改訂を経て、1546年のトリエント公会議でウルガタが「唯一のラテン語正典」と決定します。そして1592年教皇シクスタス5世による改訂本を「公認本文」とし、以後一切の聖書の翻訳が禁止されました。20世紀になると教皇庁による改訂が行われ、1987年に「新ウルガタ」が出版されました。

中世の修道院では盛んに聖書の写本が行われましたが、その際用いられたのはウルガタでした。さらに印刷機を発明したグーテンベルグによって初めて聖書が印刷されたときもウルガタが用いられました。

 

中世のラテン語至上主義

キリスト教を国教としたテオドシウス帝の死後、395年にローマ帝国は東西に分裂しました。それに伴いキリスト教会も西方教会(ローマ)と東方教会(コンスタンティノポリス)の対立が表面化します。当時の総大司教座が置かれていたのは、ローマ、コンスタンティノポリス、アレクサンドリア、アンティキオア、エルサレムの5都市です。

そしてゲルマン民族の大移動により476年西ローマ帝国は滅亡してしまいます。しかしローマ教会はこの前にゲルマン民族への伝道を開始していました。ローマ教皇レオ3世は西暦800年、西ヨーロッパを統一したフランク国王カール大帝に「ローマ帝国皇帝」の称号を授与します。カール大帝の父ピピンはイタリアのラヴェンナ地方を教皇に献上していて、これはローマ教皇領の始まりでした。フランク王国はゲルマン民族の王朝でありますが、フランク王国と手を結ぶことによってローマ教会の勢力は強大となりました。この時代はカロリング・ルネサンスと呼ばれ、フランク王国は公用語をラテン語としましたので、各地に建てられた修道院ではラテン語による典礼が執り行われ、ラテン語による単旋律の聖歌「グレゴリオ聖歌」が全土に広まりました。その後、ボローニャ大学、パリ大学、オックスフォード大学などが相次いで誕生しますが、学問には全てラテン語が用いられました。現在でも学位授与にはラテン語が用いられるそうです。これらを「中世のラテン語至上主義」といいます。このようにして、聖書はヘブライ語とギリシャ語で書かれましたが、中世のヨーロッパではラテン語の聖書「ウルガタ」が最も権威ある聖書とされた経緯をご理解いただけると思います。

この経過をふまえると、ルネサンスの宗教音楽がラテン語で歌われる理由も明白でしょう。
では歌詞(テキスト)が全て聖書の文章であるかといえば、決してそうではありません。聖職者や神学者による作詩も多く見られます。以下に代表的なテキストを紹介いたします。

 

Pange lingua(歌え、舌よ)

この歌詞は教皇ウルバヌス4世(在位1261-64)の依頼により、神学者トマス・アクィナス(1225-74)が作詩したものです。キリストの聖体の祭日Corpus Christiのための賛歌ですが、聖木曜日の賛歌としても歌われます。キリスト教の7大賛歌に数えられ、とても有名です。歌詞は全部で6節から成り、後ろの2節が「Tantum ergoかくも大いなる秘跡」として独立して演奏されることもあります。本日は竹井先生の解説付きで、パレストリーナとビクトリアの作品を聴き比べていただきます。

Ave verum corpus(アヴェ・ヴェルルム・コルプス)

これも有名な聖体賛歌です。14世紀の教皇インノケンティウス6世(在位1352-62)の作詩とも推定されます。日本語では「まことのおからだ」と訳されますが、広くアヴェ・ヴェルム・コルプスとして受け入れられています。モーツアルトによる作品が名曲との誉れも高く有名ですが、本日演奏いたしますバードの作品もルネサンスの名作と絶賛され、とても美しく甘美です。

Ave Maria(アヴェ・マリア)

歌詞の前半部分はウルガタ版のルカによる福音書の1章28節と42節からの引用です。後半のSancta Maria以下の部分は1440年頃、聖ベルナルディヌスによる作とも言われますが、1568年になって正式に採用され聖務日課集に加えられました。比較的新しい賛歌です。カトリックや東方正教会では聖母マリアを神格化し崇拝しましたので、朝、昼、夕と教会の鐘を鳴らし、この「Ave Maria」の祈祷文を唱える時間がきたことを知らせたそうです。非常にたくさんの作曲家が作品を残しています。

では最後に、「ラテン語lingua latina」について簡単に解説を…
当初はイタリアの中西部ラティウム地方の方言であったものが、ラティウム族の中のローマ人による世界制覇(前500〜西暦400頃)に至って、広大なローマ帝国の公用語となりました。さらに現代でもラテン語から派した言語を「ロマンス語(ローマ人の言葉の意)」といいますが、イタリア語、フランス語、スペイン語、ポルトガル語、ルーマニア語などが含まれ、実に多くの人が使用しています。

ちなみに、英語の辞書に載っている単語の語源を調べると、45%の単語がラテン語に由来し、残りはアングロサクソン語(20%)、ギリシャ語(15%)、その他(20%)です。ロマンス語には分類されない英語でもかなり影響を受けていることがわかります。

5 あとがき

聖書には何が記してあるのか?私が初めてルネサンス宗教曲を歌ったのは高校生で、神水教会の練習室を使用させて戴くようになってからもう30年が経ちます。おそらく初めて聖書に接したのはこの頃で、「門前の小僧習わぬ…」ではありませんが神の言葉が記された書物であると認識致しました。幸運なことに大学でラテン語を学ぶ機会が与えられ、また仕事でフランスに渡った際にカルチェラタンの書店でウルガタ聖書を入手することができました。聖書は神そのものではありません、モーセの十戒の中の偶像崇拝の禁止にある如くです。またイエスは「律法のために人がいるのではなく、人のために律法がある」と説きました。ならば聖書も「聖書のために人がいるのではなく、人間(の幸福)のために聖書はある」と考えるべきでしょう。また聖書は読まれるために書かれたので、そこには必ず筆者の意図があり、伝えたい目的が綴られています。神の啓示に基づくならばそれが目的であり、口承の如く一字一句違いなく記したのならば、それこそ筆者の意図です。聖書とは、神とキリストについて知り考える、その契機、手段です。しかし不幸なことに教会は信者が聖書を読むことを禁止した時期があります、それは1229年のことです。教会の既得権の保護以外の何も根拠がないといわれます。また異端尋問という処刑や、宗派間との争いの中で多くの信者の命が奪われたことについて心を痛める方は多いでしょう。

おそらく、十字架の購い(あがない)は未来永劫、人類すべてに向けられたものではないでしょうか。もし無礼な言い方を許して戴けるなら、キリスト教徒であるか否か、洗礼を受けたか否か、さらに宗派の相違などについて、イエスはどう考えていたのでしょうか。

まさに太陽の光が地上に降り注ぐが如く、すべのものに神様の恩恵は届くと信じます。
20世紀は資本主義と共産主義というイデオロギー対立を生みましたが、21世紀は宗教対立の時代に突入したと指摘されます。神の名の下に殺人や戦争が行われませんよう、西洋文明が4000年をかけ守り育んできた英知の結集として、「聖書」は人類を平和と幸福へ導くと信じます。

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