第5話 「第12回演奏会の全曲解説」

1)Miserere mei Deus 2)Veni Creator

「サカラメンタ提要」の表紙

この2曲のグレゴリオ聖歌は典礼書「サカラメンタ提要」の中の曲です。伊東マンショら天正遣欧使節が持ち帰ったグーテンベルグの印刷機によって印刷されました(1605年、長崎)。

「サカラメンタ」とは「秘蹟・ひせき」と訳されます、当時の教会には7つの秘蹟(洗礼・堅信・聖体・婚姻・悔悛・叙階・終油)があり、この秘蹟を授けるためのマニュアル(解説書)として、日本での布教活動を円滑に行うため、教会暦や式文、その説明文とともにグレゴリオ聖歌も印刷されました。聖歌は全部で19曲掲載されていて、葬儀の際歌われるもの、また司教訪問の際歌われたものと考えられています。

3)Popule meus  4)Jesu dulcis memoria  5)Ave Maria

トマス・ルイス・デ・ビクトリア(1548-1611年)はルネサンス期スペインを代表する作曲家の一人です。彼はスペインのアビラという町で生まれました。アビラは中世の典型的な中核都市で、写真の様に町の周囲は壁で囲われています。ビクトリアはアビラ大聖堂の少年聖歌隊員として音楽教育を受け、イエズス会の庇護のもとローマへ留学し最高教育機関「コレジウム・ジェルマニクム」へ入学しました。そこで聖職者と同時に音楽家としての教育も受けました。しばらくはローマに残り活躍した後、故郷のスペインへ戻りフェリペ2世の妹マリア皇太后のもとで司祭として音楽活動を続けました。ビクトリアがスペインへ帰った時期に関しては諸説あるようで、1583年とも1585年ともいわれます。ちょうど伊東マンショら天正遣欧使節団がローマへ向かう往路でマドリッドへ寄ったのが1584年10月から11月の頃ですから、マドリッドで出会ったか、それともローマで出会ったか、可能性はあると思います。

「Popule meus/わが民人よ」

復活祭前の聖金曜日に“咎めの交唱“として歌われる、二重合唱のための交唱曲です。歌詞の一部にギリシャ語が取り入れられた点が大きな特徴です。曲の後半部分では、歌詞をまずギリシャ語で歌い、その後同じ意味のラテン語で歌う、これを3回繰り返します。この様式はトリスハギオンtrishagion(三聖唱)と呼ばれます。

「Jesu dulcis memoria/イエスの甘き思い出」

ビクトリアは聖職者として生涯を捧げ、当時の作曲家としては希有なことに世俗曲は一切作曲せず、ただひたすら宗教曲のみを残しました。この曲は、敬虔なキリスト教徒としての生き方を象徴する作品といえるかもしれません。

「Ave Maria/アヴェ・マリア」

歌詞の前半部分はウルガタ版のルカによる福音書の1章28節と42節からの引用です。後半のSancta Maria以下の部分は1440年頃、聖ベルナルディヌスによる作とも言われますが、1568年になって正式に採用され聖務日課集に加えられました。比較的新しい賛歌です。カトリックや東方正教会では聖母マリアを神格化し崇拝しましたので、朝、昼、夕と教会の鐘を鳴らし、この「Ave Maria」の祈祷文を唱える時間がきたことを知らせたそうです。

6)Tant que vivray  7)Chi la gagliarda

「Tant que vivray/花咲く日々に」はフランス語、「Chi la gagliarda/ガリアルドを習いませんか」はイタリア語による歌詞で歌う世俗曲です。ともにダンスのための舞曲で、前者はパヴァーヌという踊り、後者はガリアルドという踊りが関係しています。バヴァーヌの語源となる「pavo」とは、ラテン語で「孔雀」を意味します。また「ガリアgaglia」とは北イタリアからフランスにかけての広い地域を指すローマ時代の古い名称ですが、後世になるとフランス地方だけを指す様になりました。ガリアルドとは16〜17世紀にフランスで流行した2人で踊るダンスのことで、ガリアルドを直訳すると「フランス風の」という意味かもしれません。

8)Kyrie  9)Gloria 〜「Missa brevis」より

ジョヴァンニ・ピエルルイジ・ダ・パレストリーナ(1525–1594年)は「教会音楽の父」と称される、ルネサンス最大の作曲家の一人です。ローマ近郊のパレストリーナという村の出身で、教皇庁のジュリア礼拝堂の楽長、さらにバチカンのシスティーナ礼拝堂の聖歌隊歌手、ラテラノ大聖堂の楽長などを歴任し、音楽家として最高の名誉を得ました。

当時のイタリアではフランドル地方出身の音楽家「フランドル楽派」が活躍していました。というのもルネサンス音楽の特徴というべき「通模倣様式」という作曲原理を彼らが確立したからです。通模倣様式とは各声部が対等の関係で模倣しながら旋律が進行するもので、パレストリーナはこの通模倣書法を基本に彼特有の旋律の美しさと透明感のある和声感とを加え、数多くの傑作を残しました。「パレストリーナ様式」と呼ばれ、音楽理論の厳格対位法の模範とされます。

本日演奏しますミサ・ブレヴィスは1570年ローマで出版されたミサ曲集第3巻に収められていますから、伊東マンショら一行がまさにローマの教会でパレストリーナに出会ったか、もしくは彼の音楽を耳にした可能性が十分にあると考えられます。

10 Matona mia cara

ラッソ(1532-1594年)はフランドル地方出身の作曲家で、フランドル楽派でも最後の後期フランドル楽派に属します。少年時代に聖歌隊員として活躍しましたが、その声があまりに美しいため3度も誘拐されたとか、宮廷音楽家として各国を渡り歩いたため外交官としての手腕に長けていたともいわれます。

ラッソは何ヵ国語にも精通したとされ、この「Matona mia cara/私の愛しいひと」についていえば、歌詞はイタリア語で書かれていますが、歌い出しの“matona”という単語はイタリア語の辞書には載っていません。ドイツ人が、ドイツ訛りで“madona(マドンナ)”というイタリア語を、マトナと発音することに因ります。ドイツからやってきた軍人がイタリアの美しき女性に思いを寄せて歌います、夕暮れ、窓の下にやってきて愛を告白するのです、ちょうどセレナードの場面を想像していただくと解りやすいかもしれません。しかしながら、ルネサンスの本場イタリアと比較すれば、ドイツの文化レベルは劣っていて、桂冠詩人ペトラルカの詩集も知らないし、ギリシャ神話のヘリコンの泉も知らないけれど、でも一所懸命にあなたを愛しますと切々と歌い上げるのです。多国語を操ったラッソにしか書けない作品といえるでしょう。

11 Mille regrets

ジョスカン・デ・プレ(c1440-1521年)はフランドル楽派を代表する大作曲家です。
歌い出しのmilleとは数字の1000を意味し、数多の悲しみ(懺悔)という意味です。

フェリペ2世とマリア皇太后の兄妹の父親である神聖ローマ皇帝カール5世(=スペイン国王カルロス1世)はこの曲をたいそう好んだため、当時のスペインでは「皇帝の歌」と呼ばれていました。

12 Tantum ergo(ビクトリア作曲) 13 Tantum ergo(パレストリーナ作曲)

この歌詞は教皇ウルバヌス4世(在位1261-64)の依頼により、神学者トマス・アクィナス(1225-74)が作詩したものです。キリストの聖体の祭日Corpus Christiのための賛歌ですが、聖木曜日の賛歌としても歌われます。キリスト教の7大賛歌に数えられ、とても有名です。本来の歌詞は6節から成る「Pange lingua/歌え、舌よ」という作品ですが、後ろの2節を「Tantum ergo/かくも大いなる秘跡」として独立して演奏されることも多くあります。

<サカラメンタ提要の印刷楽譜>

<現代の五線譜のもの(イスパニア調)>

<第3旋法(ローマ調)の楽譜>

このグレゴリオ聖歌には2種類の異なった旋律が存在します。サカラメンタ提要に印刷されているのは、「イスパニア調more hispano」といわれ、スペインやポルトガルで広く歌われた旋律(第5旋法)とされます。これに対してイタリアやフランスで歌われた旋律は下に示します第3旋法で書かれたグレゴリオ聖歌で、ローマ調とでも言ったほうが区別しやすいかもしれません。ビクトリアのTantum ergoはイスパニア調の旋律が、パレストリーナのTantum ergoには第3旋法(ローマ調)の旋律がそれぞれモチーフとして使用されています。

今回はこの分野の研究の第1人者である竹井先生から詳しく解説いただけると思います。ぜひ聴き比べ下さい。

14 Introit/入祭唱  〜「4声のレクイエム,1583年」より

ビクトリアが作曲した「レクイエム(死者のためのミサMissa pro defunctis)」には2曲あります。 1583年ローマで出版された4声部のものと、1605年マドリッドで出版された6声部のものです。本日の演奏会では前者の4声のためのレクイエムを演奏致します。6声のためのレクイエムは昨年の演奏会で演奏致しましたのでご記憶にある方もいらっしゃると思います。

<フェリペ2世>     <マリア皇太后>

ビクトリアがスペインに帰国して仕えたマリア皇太后(1528-1603年)について少し述べておきます。マリア皇太后は神聖ローマ皇帝カール5世とイザベラの長女として生まれました。スペイン国王フェリペ2世は兄です。神聖ローマ皇帝マクシミリアン2世へ嫁ぎ、息子2人もまた神聖ローマ皇帝となりました。夫の死後は故郷のスペインへ戻り、マドリッドのデスカルサス・レアレス修道院で静かに暮らしたそうです。神聖ローマ帝国の皇太后としての立派な地位がありましたが政治的な問題には一切関わらなかったそうです。

1603年マリア皇太后が亡くなると、彼女のためにビクトリアはレクイエムを作曲しました、これは1605年に出版された「死者のための聖務曲集」の中に収められています。その後もマリアの娘マルガリータ(1567-1633年)にビクトリアは仕え、1611年に生涯を終えるまで修道院にとどまりました。

15 In paradisum

この曲も典礼書「サカラメンタ提要」の中の1曲です。
右の写真のように「朱色の五線」のうえに「黒い四角の音符(ネウマ)」が置かれた2色刷りでした。

この曲は葬儀の最後、死者の柩を墓地へ運ぶときに歌われ、目の前に天国への情景がひろがります。第7旋法で書かれた、まことに美しい旋律がつけられています。

伊東マンショの没後400年を記念する演奏会の最後に歌わせていただくのにふさわしい曲だと思います。

解説集