「トマス・タリスの生涯とエレミア哀歌」第11回演奏会より
タリスの生涯と、4声のアンセム「If ye love me」
トマス・タリス
トマス・タリスThomas Tallis (c.1505-85) は穏やかで静かな性格であったと言われます。 しかしその性格とは反対に彼の生きた時代は激動の時代でした。彼は1505年頃、イギリス南東部ケント地方で生まれたと考えられています。タリスに関する最初の記録はケント地方の東端、ドーヴァーにあるベネディクト会小修道院のオルガニストとして1532年から4年間活躍した事が残されています。1534年イギリス国王ヘンリー8世により英国国教会が成立すると、宗教改革の名目で1536年イギリス各地の小修道院の解散が図られました。小修道院の土地と財産の没収による王室財政の建て直しがその目的と言われますが、ドーヴァーの小修道院は閉鎖され、タリスは失職しました。その後ロンドンへ移り修道院のオルガニストを転々としましたが、1543年ついに王室礼拝堂(チャペル・ロイヤル)の聖歌隊員に任命されます。典礼音楽を演奏するのみならず、そこで演奏される音楽を作曲するのも重要な役目でした。タリスは世を去るまでの40年以上にわたりその地位を保ちましたが、その間にイギリス国内は激動します。ヘンリー8世のあと王位を継いだのはエドワード6世(在位1547-1553)です。わずか6年間の短い期間でしたが、国教会の強化がなされました。礼拝はラテン語ではなく英語で行うことに改められ、王室礼拝堂は積極的に英語による教会音楽を演奏しました。この4声のアンセム「If ye love me/汝らわれを愛さば」はエドワード6世時代の初期に書かれた英語の作品です。初期の国教会のためのアンセムの典型的なスタイルされ、ABB形式のホモフォニー書法の強い簡素な作品です。
エドワード6世のあと即位したのは、女王メアリー1世(在位1553-1558)です。熱心なカトリック教徒であった女王は、イギリスを国教会からカトリックへ復帰させました。激しい迫害も行われ聖職者を含む300人を処刑します。礼拝も元のラテン語で執り行われ、この間はラテン語の作品が作られました。つづいて王位を継承したのはエリザベス1世(在位1558-1603)です。国教会を支持しましたが、聡明だった彼女は穏健な宗教和解をめざしました。英語を国教会の公用語と定めながらも、ラテン語による祈禱書にも認可を与えています。タリスは女王の新しい方針に従って英語の教会音楽を積極的に書きましたが、ラテン語の作品も書き続けました。
このように三度にわたる王室の変化にタリスはうまく対応し、王室礼拝堂聖歌隊員としての地位を保ちました。エリザベス1世の元で活動して15年経過した1572年、若くて有能な音楽家ウイリアム・バード(1543-1623)が聖歌隊員のメンバーに加わります。タリスはバードの才能を認め歓迎したようです。バードの息子の名付け親となったことからもその友情の深さが想像できましょう。
タリスが確立した音楽はバードへと受け継がれ、イギリスの音楽史の全盛期を迎えました。
タリスはその温和な性格ゆえに歴代の国王に気に入られ、かつ王室礼拝堂の仲間ともやっていけたとされます。タリスはロンドンのグリニッジに家を持ち晩年を過ごしたそうです。
1585年11月23日が彼の命日であることも記しておきます。
タリスの「エレミア哀歌」
預言者エレミア
レンブラント作 1630年
旧約聖書の「哀歌」を書いたのは預言者エレミアであると長い間考えられていました。そのためにウルガタ聖書や新共同訳聖書での順番は「エレミア書」の次にきています。しかし現在では哀歌の著者はエレミアではないことが判っています。さらに哀歌には「第1の歌」から「第5の歌」まで5つの章で構成されていますが、各章ごとに著者は異なるそうです。
では「預言者エレミア」とはどういう人なのでしょうか?
預言者とはヘブライ語でネビイーム、呼び出された者という意味です。青年エレミアが神ヤハウェの召命を受け、預言者として立ったのは紀元前627年とされます。第1回バビロン捕囚(前597年)の30年前です。エレミアが同胞らに告知すべきことは「北からの災いの到来」でした。当時の民衆は神ヤハウェ信仰から離れ、カナンの神バアル崇拝をはじめとする異教が蔓延していましたし、また貧しい者を顧みない不義不正な社会でしたから、神から「災い」が下されると語ったのです。王と民に悔い改めるよう迫るエレミアの言葉をだれも聞き入れようとはせず、反対にエレミアを攻撃し迫害するようになります。ところがバビロニアの襲撃を受け、北からの災いは現実となってしまいました。その後エレミアはバビロニアからの支配に服従せよと語ります、これは神からの“懲らしめ”であると考えたからです。しかしまたこれは国粋主義者からみれば許さざる売国思想であり、エレミアに対する迫害はさらに続きました。エルサレムが陥落し荒廃した後も、彼は祖国にとどまり国家再建に尽くす覚悟でしたが、拉致されエジプトで悲劇の生涯を閉じました。
祖国が滅亡へと衰退していく時代の中で、偽りを嫌った預言者エレミアは生涯をかけて真実の信仰を叫び求め続けましたが、彼が手に入れたのは真実ではなく絶望だったのかもしれません。
次にテキスト(歌詞)について…
栄華を誇ったイスラエル王国は南北に分裂しバビロニアに滅ぼされてしまいます。前586年、首都エルサレムは陥落し町も神殿も破壊され、ユダヤ人はバビロニアへ連行されました(第2回バビロン捕囚)。著者は荒廃した町の光景を嘆き、民衆の苦しみを汲み、エルサレムの栄光が再び取り戻されんことを祈りました。単なる嘆きの歌ではなく、苦難の中から学んだ信仰の教訓が込められています。
本日演奏しますエレミア哀歌1は、聖書の「哀歌」第1の部分であり、前597年のエルサレム第1回占領直後に書かれたとされます。
「アーレフaleph」、「ベートbeth」とはヘブライ語のアルファベットの第1文字と第2文字です。ギリシャ語のアルファα、ベータβ、ラテン語のA、Bに相当して、各段落の順番を表しています。アルファベットの起源を調べますと、「原カナン文字」という絵文字までさかのぼります。紀元前3000年頃メソポタミア地方のシュメール人は「くさび形文字」を使用し、エジプトでは「神聖文字・ヒエログリフ」が発明されました。どちらも文字の種類が500以上あり、また複雑な構造のため「書記」という位の高い専門技官が独占していました。このような状況の中で、北のメソポタミアと南のエジプトの中間にいた「カナン人」はくさび形文字と神聖文字の両者を取り入れて、文字数を極端に減らし表記法も簡素化した「アルファベット」を考え出しました。シナイ半島で発見されたシナイ絵文字(前1500年頃)が初期の文字とされます。このアルファベットはカナン人からフェニキア人へ、そしてギリシャ人やローマ人へと伝えられました。
ちなみに、原カナン文字ではアーレフとは「牛」、ベートとは「家」を表す絵文字です。したがいましてアルファベットを日本語に直訳すると「牛家」となり、まるでどこかの定食屋さんみたいになります。
ではさらに曲の中身を調べてみましょう。
この作品は5声の男声合唱曲として書かれました。したがって混声5部で演奏する場合は、移調して高く(短3度)して演奏致します。
冒頭「エレミアの哀歌がここに始まる…」の部分は、美しい旋律がパート毎に音程を変えて緻密に模倣されて歌い出します。この冒頭部分を聴いただけでもう十分に感動してしまいます。つづいて「アーレフ」、前述のように日本語で「その1」みたいな意味になるでしょう。「Quomodo…」からはバリトンが先行してフレーズを歌います。前半の最後「…facta est tributo」の最後の和音ですが、この作品の主調は短調ですが、この終止和音は第3音を半音あげて長調として終止します。このテクニックは「ピカルディの和音」と呼ばれ、短調の暗く物悲しい響きの中で、最後だけひときわ明るく華麗な響きで終わらせる効果があります。しかし次の「Beth…」の歌い出しはまた短調にもどっていて、暗いです。一時、明るい希望を見いだすも、目の前の現実は暗く絶望してしまう、歌詞の意味そのものです。さらに「Beth」と「Plorans…」の歌い出しの音と、この曲の一番初めのアルトの歌い出しの音との関係は増4度、「悪魔の三全音」といわれる非常に不安定な音程となっています。この作品はルネサンス宗教曲には珍しく、7度や9度といった不協和音が散りばめられ、精神的にも不安定な様を表現しています。まさに“表題音楽的”な表現と言えます。そしてフィナーレの「エルサレムよ、エルサレムよ、あなたの主、神のもとにかえれ」は何度歌っても神秘的で魅力的な最終部です。
タリスがいったい何年にこの作品を作曲したのか、またどのような意図をもって作曲したのかは不明です。事実、タリスが生きている間に公表(出版)されることがありませんでした。その理由として、エリザベス1世の時代、英国国教会の典礼は英語で執り行うとされていたため、ラテン語の曲を演奏することは王室礼拝堂の音楽家には困難であったと想像されます。しかしながらこの曲は名曲と絶賛されます。ルネサンスをレパートリーとするプロの合唱団の多くがこの曲を録音していて、私の元には10団体以上のCDがあります。演奏家が一度は演奏したくなる、演奏意欲をかき立てられる作品であり、またファンからも非常に人気の高い作品だからでしょう。
タリスのエレミア哀歌をこの合唱団で演奏することは私の夢でした。念願が叶い今年の演奏会で聴衆の方々に披露できることをたいへんうれしく思い、感謝して居ります。