第3話 「伊東マンショの生涯」第12回演奏会より

今年は伊東マンショが亡くなってちょうど400年にあります。そこで今年の解説は没後400年記念として、伊東マンショの生涯について調べてみました。
伊東マンショとはいったいどういう人生を過ごしたのでしょうか?

伊東マンショは1569年(永禄12年)頃、日向国の都於郡(とのこおり)、現在の宮崎県西都市(旧都於郡村)で生まれました。伊東家は鎌倉時代から日向を支配した大名であり、マンショの母「町上(まちのうえ)」は、第10代当主・伊東義祐の娘で、一族の「伊東祐青」へ嫁ぎ、マンショを生みました。マンショの母の実兄である第11代当主・伊東義益の妻、「阿喜多」は土佐の一条房基へ嫁いだ大友宗麟の妹の娘です。したがってマンショは宗麟の「妹の娘の夫の妹の子」という関係になります。

マンショが幼少のとき、伊東家は薩摩の島津家から攻め込まれてしまい、一族は都於郡から親戚の大友宗麟のもと豊後へと逃げ延びました。その豊後府内において少年マンショはイエズス会司祭ペドロ・ラモンと出会います。1580年に洗礼を受け「マンショ」と名乗るようになりました。巡察師ヴァリニャーノにより島原半島の有馬と、琵琶湖畔の安土の2カ所にキリスト教のための学校「セミナリオ」が開設されると、すぐに有馬のセミナリオへ入学しました。そこでヴァリニャーが企画した天正遣欧使節の一員として選ばれ、遥々ローマへむけて出航します、1582年2月20日(天正10年1月28日)のことです。

<1586年の新聞に掲載された肖像画>

正使である伊東マンショは大友宗麟の名代として、同じく正使の千々石ミゲルは有馬鎮貴(晴信)と大村純忠の名代として選ばれました。長崎を出港して2年半後の1584年8月にポルトガルに到着します。途中マカオに10カ月間滞在し、マラッカに1週間、インドで7カ月間滞在し、アフリカの喜望峰を回って大西洋に出てからの到着でした。ポルトガルからスペインのマドリッドへ移動し、そこでスペイン国王フェリペ2世に謁見します。一行は国王から熱烈な歓迎を受けました。当時のマドリッドにはフェリペ2世の妹マリア太后が住んでいて、作曲家ビクトリアはこのマリア太后に仕えていましたから、使節団一行はビクトリアと交流があったかもしれません。

さらに一行はイタリアへと旅を重ね、目的地ローマへ到着します。ヴァチカン宮殿において教皇グレゴリウス13世との謁見を果たし、織田信長から贈られた「安土の屏風絵」を献上します。その3週間後に教皇グレゴリウス13世は亡くなりますが、新たな教皇シクストゥス5世からも手厚い歓迎を受け、ローマ市民権を与えられました。

新教皇シクストゥス5世のラテラノ教会への行幸式へ参内する4人の使節団の馬上の雄姿が、ヴァチカンの壁画に描かれ、現存しています。右の写真の2段目と3段目です。
ラテラノ教会は作曲家パレストリーナが一時、音楽監督を務めていた教会であり、本日演奏する楽曲の作曲家の一人です。

一行の欧州訪問は当時のキリスト教世界に大きく報道されました。ルターによる宗教改革をうけて当時のカトリック教会の中に「イエズス会」が誕生しますが、イエズス会の創始者イグナティウス・ロヨラらは積極的にカトリックの勢力拡大を図りアメリカ新大陸とアジアに宣教師を送りました。したがってアジアの果て日本からやって来た使節一行は、イエズス会の成果と教会の権威を示すのに、格好のニュースとなったと考えられます。調査によると、1585年から1593年の間に90を越える使節関係の書が刊行されたそうです。欧州に行った日本人はたくさんいるけれど、彼らほど名を馳せた日本人はいないと讃えられます。

このように大変な苦難に満ちた船旅を経て、欧州で華やかな日々を過ごしたマンショら一行ですが、彼らの航海中、残念なことに大友宗麟と大村純忠は亡くなってしまいます。さらに「本能寺の変」が起きて、キリスト教に寛大であった織田信長から豊臣秀吉へと国内の覇権は移行しました。1587年7月24日(天正15年6月19日)に「伴天連追放令」が発せられ、キリスト教は禁教となり国内での布教活動が禁止されてしまいます。このため一行は復路マカオまで辿り着いたものの、1年10ヶ月もの間マカオに留まり秀吉から入国許可が下ることを待ちました。そしてインド副王の使節としてヴァリニャーノ一行が入国を許され、無事に長崎港に帰国したのは1590年7月21日(天正18年6月20日)とされます、船出してから8年5ヶ月の歳月が過ぎていました。そして翌1591年3月3日(天正19年閏1月8日)、京都の聚楽第においてインド副王からの国書を携えて、ヴァリニャーノとマンショら使節団は関白秀吉と謁見することが出来ました。野心家の秀吉は、明(中国)、呂宋(フィリピン)、南蛮諸国まで征服することを夢みていましたから、南蛮から帰朝したばかりの青年らは知識も経験も語学力も申し分なく、大変魅力的な家臣になると映ったのでしょう、秀吉から高禄で仕官するよう誘われますが、マンショらは丁重に断ったそうです。

その後のマンショらの足跡を説明いたしますと…
マンショら4人の青年は1591年7月25日イエズス会への入会を認められ、ヴァリニャーノの司式により、天草の修練院で正規のイエズス会員となりました。つまり、マンショはしばらく天草に滞在し勉強していたようで、当地熊本とも少なからず関係があります。1599年には修練院が天草の志岐へ移転します。1601年伊東マンショと中浦ジュリアンはマカオへ派遣されて修道士としての教育を受け、1604年に長崎へ帰国、1608年伊東マンショ、原マルチノ、中浦ジュリアンの3名が司教セルケイラにより司祭に叙されました。

司祭となったマンショは山口から九州各地をまわり布教しました。母親・町上が住んでいた飫肥(宮崎県日南市)にも赴いたそうです。司祭として4年間活動した後、1612年11月13日(慶長17年10月21日)長崎で病死しました、享年43歳でした。

都於郡城址の伊東マンショ像と生誕の地石碑

さて今回の執筆にあたり、伊東マンショゆかりの地を訪ねましたので報告しておきます。
「伊東マンショ誕生の地」の石碑は都於郡城址(宮崎県西都市)の本丸跡に建てられています。伊東マンショ記念像、慰霊碑、顕彰碑も同じ本丸跡にあります。左がその写真です。

その後の伊東家についても述べておきましょう。島津家から攻め込まれ国を追われた伊東家でしたが、11代当主・義益の弟である12代当主・伊東祐兵のときに、山崎の合戦(1582年)の功績を認められ河内500石の領地を拝します。さらに秀吉の九州征伐に際に道案内を務めた功績により飫肥・清武・曽井の3万6千石を拝して、飫肥藩主となりました。つまりマンショの母の弟「マンショの叔父」が飫肥藩初代藩主となったのです。関ヶ原の合戦で祐兵の嫡男祐慶が東軍徳川方に味方して本領安堵され以降、明治時代まで代々飫肥藩主を務めます。

左:五百祀神社、右:神社の奥にある
伊東家墓地(向かって左側にはマンショの母・町上の
墓があると伝わっている)

マンショの母・町上は長命し、マンショが亡くなった12年後の1624年8月28日に逝去しました。口伝によると、マンショは藩主墓地に埋葬されたものの、徳川幕府のキリシタン禁教令により墓石が破壊され、母・町上がマンショの遺骨を祀っていました。母の死後、遺言により、町上と同時期にマンショの遺骨は墓石址へ埋葬されたと伝わっています。町上の墓は伊東家代々の墓地である日南市飫肥の「五百祀神社(いおし神社)」の裏手にあるとされます。この五百祀神社のある場所は、元は「報恩寺」という仏院で飫肥藩初代藩主・伊東祐兵のために建立されました。明治時代の廃仏毀釈により廃寺となった後は、神社となります。ちなみに伊東家が西都の都於郡に城を構えてから最後の藩主・祐相まで535年であることから500年祀るという意味で「五百祀神社」と名づけられたそうです

最後にマンショらが当時の日本にもたらした功績について考えてみましょう。
まず第1に、彼らは印刷技術と印刷機を日本へもたらしました。使節団にコンスタンティノ・ドラードと名前がありますが彼は日本人です。ドラドルとはポルトガル語で金細工師を意味し、彼はヨーロッパで金属活字鋳造術と印刷技術を習得しました。帰国後、持ち帰ったグーテンベルグの印刷機を用いて日本で最初の印刷楽譜「サカラメンタ提要(1605年、長崎)」が印刷されます。またこの印刷機では「平家物語(1592年、天草)」や「伊曽保(イソップ)物語(1593年、天草)」の読本、語学書や辞典などが印刷されました。

2つめの功績は音楽技術、演奏技術を持ち帰ったことです。ポルトガルに滞在中、エヴォーラの大司教座教会の三段鍵盤の大オルガンをマンショとミゲルは立派に演奏したそうです。さらに聚楽第で関白秀吉に謁見した際に、少年たちは西洋楽器の御前演奏をしました。しかも秀吉が3回もアンコールを求め演奏させた曲があるそうです。残念ながら曲名は不明ですが、当時「皇帝の歌」として流行していた曲に研究者の注目が集まっています。

伊東マンショは若き日、使節団の主席正使としてルネサンス華やかな欧州を見聞し帰国しました。初の国際人ともいえる彼の没後400年、音楽でその旅路をたどりながら今宵の演奏会は楽しんでいただけると幸いに存じます。

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